2011年12月8日木曜日

貞観11年5月26日の「貞観大地震」の現在暦は?

【1】私は2011年12月8日に次のようにブログに掲載しました(一部修正)。

ネットを検索していたら「貞観地震・津波からの陸奥国府多賀城の復興」という論文に出会いました。この論文は、東北歴史博物館上席主任研究員の柳澤和明氏が2011年5月28日に著したもので、貞観大地震を記録した『日本三大実録』の記述内容と多賀城跡の発掘成果をコンパクトに紹介し、東日本大震災と関連づけて考察したもので、多くのみなさんにぜひ一読をお奨めしたい論文です。
ただ、「この巨大地震が発生したのは、貞観11年(869)5月26日で、現在使われている暦に直すと7月9日にあたります」としていますが、この陽暦換算日はユリウス暦であって、グレゴリオ暦では4日をたして7月13日になるはずです。
ユリウス暦は太陽暦の旧暦で、4年に1度きちんきちんと閏日をもうける暦です。でもこれでは閏日をとりすぎなのです。それで1582年の10月4日の次の日を10月15日にし、閏日とりすぎによるズレをただし、以後400年に3回、閏日を省くことにしたのです。西暦年が4で割り切れても100で割り切れる年は平年とし、100で割り切れても400で割り切れる年は閏年とすることにしました。これがグレゴリオ暦です。
日本では明治5年12月3日を明治6年1月1日とし、太陰太陽暦からグレゴリオ暦に替えました。つまり、わが国ではユリウス暦は一度も使ったことがなく、陽暦換算をするならグレゴリオ暦にすべきです。
なお、『日本暦日原典』を用いた陽暦換算は以下のようになります。
まず「貞観11年5月1日」はユリウス暦で869年6月14日です。(『日本暦日原典』p155)
したがって「貞観11年5月26日」は869年6月14日+25日=6月39日=7月9日。
700年2月29日から900年2月28日までユリウス暦とグレゴリオ暦との差は4日です。(『原典』p545)
こうして「貞観11年5月1日」は、現在の暦=グレゴリオ暦で869年7月13日となります。お問合せは(eメールアドレス:f.masuei@gmail.com)まで。.


(2)このブログについて柳澤和明氏から「1582年以前の和暦については、火山学者の早川由紀夫・小山真人氏による下記の論文があり、(火山学・地震学や歴史学では)一般には1582年以前の和暦はユリウス暦で表記されるようになってきております。小生もそれにしたがいました」とのメールを頂戴しました。(12月23日)
「1582年以前の火山噴火の日付をいかに記述するか―グレゴリオ暦かユリウス暦か?」1997『地学雑誌』106-1 掲載 http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/seminar/Julian.html


(3)どうやら私が考えていたほどことは単純ではないようです。さしあたり「現在の暦で…」としながらユリウス暦に換算することについて理解できない旨メールを差し上げましたところ、その点については理解していただいたような気がします。ただ換算にについては、ユリウス暦時代の1582年以前の和暦については「ユリウス暦に換算するのが趨勢」とのことです。
私としては、当時の太陽暦と比較する時にはユリウス暦、「現在のこよみでいつか」という問題設定のときには現在使われているグレゴリオ暦に換算するのが妥当と思うのですが…。いずれにしましても柳澤氏により今日の研究者の動向をご教示いただき感謝をしております。
なお1月22日に東北歴史博物館のオープン講座で同氏が「貞観地震と陸奥国の復興」の講演をされます。まだ余裕があるそうです。ぜひ拝聴しましょう。私も参加します。

「貞観の大地震」―――原文・読み下し文・口語訳・言語解説

東日本大震災で869年の「貞観の大震災」が注目されるようになりました。私も10年前から紹介してきましたが、今回、改めてじっくりと読んでみました。素人ながら漢和辞典と首っ引きで読み下し文、口語訳文に挑戦しました。原文も掲載しました。ぜひ読んでみてください。







































2011年9月30日金曜日

明治5年12月は2日しかなかった。その理由は…

わが国の暦はいつから太陽暦になったのだろうか?
明治六年からである。
明治政府は明治五年十一月九日、「来る十二月三日を明治六年一月一日とする」と改暦の布告を行った。
したがって、明治五年十二月は二日しかない。
では改暦まで一ヵ月を切った時点で、なぜあたふたと改暦したのか。
それは公務員の給与削減のためだった。
以前年俸制だった役人の給料は明治四年から月給制に。
気が付いてみたら明治六年は閏六月があり十三カ月の年(すなわち旧暦の閏年)。
このままでは年に十三回も給料を払わなくてはならない。
財政難だった明治政府、それは大変とあわてて太陽暦に変更した。
(第三章三節)

4日の次が15日?

実際の太陽の一年平均は三六五・二四二二日だが、ユリウス暦は四で割り切れる暦年を閏年とするので、三六五・二五日となり、実際よりわずかに大きい。
そのため、百二十八年に一日ずつずれていく。
十六世紀には春分が三月十一日にくるようになった。
放置するとキリスト教の復活祭が真夏になってしまう。
これはまずいとグレゴリオ十三世は、一五八二年十月四日の翌日を十五日とし十日間のずれを修正し、四百年に三回閏年を省くことにした。
すなわち、四百で割り切れない限り、百で割り切れる年を平年にすることにした。
これをグレゴリオ暦といい、一年平均三六五・二四二五日となり、約三千年に一日しかずれない暦となった。
(第一章二節)

ロシア革命は「十月?」それとも「十一月?」

世界史の大事件=ロシア革命は「十月革命」とも「十一月革命」とも言われる。
これってなぜ?。
実は、一九一七年当時、ロシアはまだ「ユリウス暦」を採用しており、この日は十月二十五日。
この頃はすでに日本も採用していた世界の暦=「グレゴリオ暦」では十一月七日。
それで両方の記述があるという次第。
ちなみに、グレゴリオ暦とユリウス暦の差が十三日であるのは一九〇〇年二月二十九日から二一〇〇年二月二十八日まで。
以後は十四日となる。

12月に春が来た

 「あらたまの年行きがへり春立たばまづわが屋戸にうぐひすは鳴け」。

 この歌は大伴家持が天平宝字元年十二月十八日に詠んだ歌で、「うぐいすよ、立春になったらまず私のうちに来て鳴いておくれ」という意味。

 翌十九日は立春だった。

 旧暦で十二月に立春がくることを「年内立春」という。

 旧暦の閏年(十三ヶ月の年)には必ずなり、翌年もなることがある。

 ちなみに家持がこの歌を詠った日の現在暦は七五八年二月四日。

 その家持、同月二十三日に「月数めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春たちぬとか」と詠んだ。

 「暦ではまだ冬だ。だが霞がたなびいている。春が来たのだろうか」という意味。

 いったい春なのか冬なのか。どう理解すればよいのだろうか?

 興味ある方は第六章を御覧下さい。

おかしくない?『おくのほそ道』の時刻解説

 芭蕉が多賀城を通過したのは元禄二年五月八日(陽暦一六八九年六月二十四日)。

 多くの解説書はこの日「巳ノ尅(午前十時)」に仙台国分町を出、十符菅、多賀城碑を見、「未ノ尅(午後二時)」に塩竈神社前の宿でお茶漬けをたべた、と解説している。

 この間わずかに四時間。

 はたして可能だろうか。

 芭蕉については「あんなに早く歩けるはずがない」と忍者説も出る始末。

 しかし誤りは江戸時代の時刻制度を「定時法」と理解することにある。

 当時の時刻制度は「不定時法」だった。

(第五章、第八章)

西行が死んだとき桜は咲いていた?

生前に西行が詠んだ「願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」は超有名。
「できることなら桜が咲いている春に死にたいものだ。しかもお釈迦様が亡くなったといわれる二月の十五日頃に」という意味。
そして建久元年二月十六日に河内国南葛城の弘川寺で亡くなった。現在の暦で一一九〇年三月三十日。桜はおそらく咲いていただろう。
では如月の望月の頃、いつも咲いているのか?
そうではない。現在の暦に換算してみると三年に一度、「咲いていたかもしれない」という年がある程度。だからこそ西行は「願はくば…」と歌ったのだ。桜はやはり「弥生」の花である。
(序章、第四章二節、第七章)

藤原益栄(2002)『文学・歴史を読み解くための 暦のはなし』 頂いた感想④

仙台市 渡辺 襄 さん 日中友好協会宮城県連事務局長

 「暦のはなし」のサブタイトル「文学・歴史を読み解くため」にひかれて購入し、読み始めたら面白くてついつい一気読みしてしまいました。

 日頃お世話になっている暦が太陽暦であることは知ってはいても、そこに定まるまでにこんな歴史があったのかと目を開かされました。太陽暦がジュリアス・シーザーからはじまり、ついでローマ法王グレゴリオ十三世によってさらに精緻なものになるのには、復活祭を権威づける試みが深くかかわったというお話は興味をそそられました。…

 ところで、日本がグレゴリオ暦をとりいれたのは明治六年です。

 なぜそうなったのかの真相として藤原さんは、明治政府が月給を十三回はらわなければならないことに気がついて、当時の財政難からあわてて導入したという、ほとんどジョークに近いお話を大隈重信の回想録に語らせ、ついでに政府のお先棒をかついで「改暦弁」出版で大もうけをした福沢諭吉のエピソードまで鋭く言及しています。

 私としては「第八章『奥の細道』の時刻を考える」が面白いところでした。
 …ものは試し、六月二十四日に芭蕉ウォークといった歩け歩けの行事を企画して見たらけっこうイケるのではないかなどと「暦のはなし」を読んで夢を膨らませているところです。

藤原益栄(2002)『文学・歴史を読み解くための 暦のはなし』 頂いた感想②③

岩手県  縣 二三男さん(元小中学校教員)

 教科書にも載るようになった「南部三閉伊一揆」は来年百五十周年。

 指導者らが仙台での交渉を終え、宮古に帰ったのは十一月十三日で「街道はもみじにうまっていた」とする本もある。しかし陽暦では「十二月十三日」。そういう景色ではなかったようだ。

 本書によって歴史的諸事件の情景把握と描写には暦の学習が不可欠と思い知らされた。子供の頃から物事を突き詰めて考える風があったが、工学部出身でありながらこういう本を著したことに驚いている。




多賀城市 三村雅水さん(文芸同人誌「東北山脈」主催)

 本書はサブタイトルに″文学・歴史を読み解くための″とあるように、我々のような小説を書いたり、読んだりする者にとっては、すぐに役立つ便利な本である。

 その上「暦で『万葉集』を読む」等応用編まで書き及ぶサービスぶり。

 「季節の変化はなぜ起こる」など前半部分は学術書の役割まで果たしている。

 本書は多彩にして緻密、発想は個性的で独自であり、他に類を見ない優れた著作である。

藤原益栄(2002)『文学・歴史を読み解くための 暦のはなし』 頂いた感想①

東京都 大谷三郎さん(六十四歳)
 
 古文書や歴史書を読むにつけ旧暦についてもっと知識を深く得たいと考える人は年々増えていると思います。

 明治生まれの私の父母は、干支で年月・時刻をみ、合わせて新暦も使っていました。
 親が他界して以後、日常に旧暦を耳にすることがなくなって四十数年になります。「旧暦」について理解の浅さを痛感し、深く知りたいと思い続けていたので本書との出会いは幸いでした。

 「暦のはなし」は暦の変遷を体系的に分析・解明され、現在の新暦にいたる背景が詳しく書かれています。しかし、暦自体、奥深い歴史と内容を持っているので一度に全部を習得できなくてもくり返し読み、必要に応じて本書を取り出し、首っ引きすることで読書の収穫が大いにあがることがわかり、資料としての価値を高く買っております。

 通読して暦に対する著者の熱意と研究姿勢に敬服しました。従来の新旧比較換算方法の誤りを正したことは歴史的な功績ではないでしょうか。第十章は感動しながら読みました。理数系の頭脳から打ち出される論理性高い一字一句が、高い人格と哲学・人生観から出ていることに驚きと感動をもって読んでいます。

 「多賀城」の項から、以前藤原三代記その他などで深い関心を持ったことを思い起こさせてくれました。これを機に「暦のはなし」を携えて多賀城と東北地方の歴史探訪をしてみようと考えております。

藤原益栄(2002)『文学・歴史を読み解くための 暦のはなし』(写真)

◎目次
序章 本書のテーマ
◇日付のはなし(一~四章)
◇時刻のはなし(五章)
◇日付・時刻がわかって見  えてくること(六~九章)
一章 太陽暦のはなし
◇季節の変化はなぜおこる
  ◇ユリウス暦とグレゴリオ暦
二章 太陰太陽暦のはなし
三章 わが国の太陽暦の始まり
四章 陰陽暦日換算の方法
五章 太陰太陽暦の時刻制
六章 暦で『万葉集』を読む
七章 西行『山家集』を読む
八章 『奥の細道』の時刻を    考える
九章 漆紙文書「具注暦」断     簡を読む
十章 私と歴史、歳時記、暦   ~なぜ暦の勉強を始めたか
巻末資料
 1多賀城あの日あの時
 2『延喜式』巻第十六陰陽寮
 3江戸時代の暦

○推薦します!
岡田 茂弘 先生(元東北歴史博物館館長)
暦を利用しない人はいないが、暦を良く知る人も少ない。とくに古典文学や歴史の資料に接するとき、当時の暦を理解していないと思わぬ誤りを犯すことがある。本書は、暦の原理から説き起こして、古典や史料に記された暦を復元している。歴史好きの人に勧めたい。

岡田芳朗 先生(暦の会 会長)
「日付と時刻で文学・歴史を解き明かす」との著者の意図は見事に成功している。暦研究の成果もふまえており「会」としても自身を持って推薦できる。

申し込みは著者まで。