2013年5月22日水曜日

連載「啄木と鉄道」(藤原益栄執筆)19回分を紹介します。

 藤原益栄(多賀城市議会議員、国際啄木学会会員)が2008年8月22日から2009年1月30日にかけ19回にわたり『多賀城民報』に連載した「啄木と鉄道」には大きな反響がありました。同連載を紹介します。
































2013年5月21日火曜日

国際啄木学会の会員に認められました。

 かねて国際啄木学会への入会を希望しておりましたが、5月17日付の文書をいただき入会を認められました。会長の望月善次先生(盛岡大学学長)と森義真事務局長さんのお二人に推薦者になっていただきました。
 私にとって啄木は、郷里の歌人であり、社会主義研究の先輩でもあります。
 全国の会員のみなさん、啄木ファンのみなさん、よろしくお願いいたします。

2013年3月2日土曜日

12月が2日までしかなかった年があるってご存知ですか?

ひと月は、旧暦では29日か30日、太陽暦でも28日か30日か31日です。ところが2日までしかなかった月があるのをご存知でしたか。うそー?。いえ本当です。明治政府は明治5年12月3日を明治6年1月1日としましたので、明治5年の12月は2日までしかなかったのです。嘘のようなホントのはなし。ぜひ『文学・歴史を読み解くための 暦のはなし』を読んでみてください。

今年は太陽暦改暦140周年です

今年は太陽暦改暦140周年です。
すなわち、明治5年12月3日が明治6年1月1日とされたのです。
明治6年は西暦で1873年。この年、前年の学制発布にもとづき
小学校も次々誕生しました。
この機会にぜひ私の『文学・歴史を読み解くための 暦のはなし』
を読んでみてください。
購入は私のメール「f.masuei@gmail.com」までお申込みください。

2012年3月22日木曜日

どうです、立派な蕗の薹でしょう!?わが家の南庭に生えたものです。

去年は大震災で、庭の蕗の薹を食べようなどど思う間もなく春が過ぎてしまいました。でもおかげで今年は一気に増えました。近所の方にあげたり、もちろん私も天麩羅で…。「こんなに苦かったっけ」と思うほどの苦さ…。2回目はさっとゆでて湯豆腐に。というわけで、わが家北庭の蕗の薹はどんどん食べています。
今日、南側の庭を見たら、「これぞ蕗の薹!」という風に育ったものが。思わず写真に収めました。

2012年1月18日水曜日

ようやくまともな日の出を見ることができました


2012年1月18日午前6時57分、浮かぶ島々と横たわる帯状の雲のわずかな隙間から太陽が顔を出した。松島に通うこと4回目にして初めて日の出らしい日の出に出会えた。7時頃、もう一人の方が公園にやってきて写真を撮りスケッチしていたが、「こんな日の出は初めて」とのこと。4回目で出会えたのは幸運なほうかもしれない。




7時2分には帯状の雲から顔を出し、松島全体が紅に染まった。これで松島通いはしばらく休止になると思う。

2012年1月14日土曜日

2012年1月11日朝 雪の多賀城碑と大路


 11日、気圧の谷が東北南部を通過し多賀城も今シーズン初めての本格的雪景色に。庭のガマズミの実に6㎝ほどの雪が積もりました。




国重要文化財に指定されている多賀城碑も雪化粧。多賀城碑が藤原朝獦によって建てられたのは天平宝字6年12月1日(現在暦=グレゴリオ暦で12月24日)。今年は多賀城碑建立1250年に当たっています。


雪の多賀城南北大路。多賀城政庁と南門の間の復元整備された大路。政庁にいたる丘陵部には石積みの階段が設けられていたことがわかっています。この階段のむこうに多賀城政庁がありました。

2012年1月13日金曜日

2012年1月8日 松島の夜明け(『西行戻しの松公園』より)


























水平線から昇る日の出を何とかきれいに収めたいと1月8日、また松島「西行戻しの松公園」に出かけました。しかし今日も帯状に雲が…。しかし太陽と雲は思わぬ作品を。日本の政治に活を入れる鬼の顔に見えませんか?(7時7分)


























結局今日も水平線から出る日の出は願いが叶わず…でした。でも日の出と雲のコラボは様々な表情を見せてくれます。(7時17分)

多賀城を彩る駅前のイルミネーション

2012年1月5日木曜日

1月3日、多賀城市消防団の出初式がありました

従来多賀城市では1月5日に消防団の出初式を行っていましたが、数年前から1月3日になりました。出初式には塩竈地区消防事務組合議会議員の佐藤恵子日本共産党市議も招待され、藤原市議は式の取材を行いました。

2012年元旦、陸奥総社に初詣

元旦、松島で初日の出を迎えたあと初詣に。塩竈神社が有名ですが多賀城にこだわり市川の陸奥総社宮まで足を延ばしました。さびしい感じがしました。塩竈神社とまでいかなくとも、もう少し賑わうようになれば…と思いました。

総社宮は、守がいちいち各国の官幣社を詣でなくてもすむように―すなわち総社を詣でればすべての国内官幣社を詣でたことにするために、平安後期に各国に造られたと言われています。私は国府所在地を訪ねた時はできるだけ総社宮も視るように、と思っていますが、これまでに視たのは三河総社、武蔵総社、下野総社ぐらいのものです。多賀城政庁跡にいらしたらぜひ陸奥総社まで足を延ばしてみてください。目の前に多賀城跡東門があり周辺の景観もなかなかです。


2012年1月4日水曜日

2012年元旦、西行戻しの松公園から初日の出を見ようと出かけました…

2012年元旦、初日の出を見ようと6時に起きて松島の「西行戻しの松公園」に出かけました。前松島町議の相沢佐和子さんが「西行戻しの松公園から見る日の出・月の出は海が金色に染まってすごいんだよ」と聞かされていたからです。しかし到着したら同公園の駐車場はすでに満杯。仕方なくちょっと海岸側に降り町営無料駐車場から初日の出を見ることになりました。

元旦7時9分、町営無料駐車場より。

西行戻しの松公園から初日の出を眺められなかった無念をはらすため再び松島に。3日の松島の夜明けです。

2012年1月3日6時36分

2012年1月3日6時53分



 2012年1月3日7時2分


2012年1月3日7時6分


2012年1月3日7時7分



2011年12月8日木曜日

貞観11年5月26日の「貞観大地震」の現在暦は?

【1】私は2011年12月8日に次のようにブログに掲載しました(一部修正)。

ネットを検索していたら「貞観地震・津波からの陸奥国府多賀城の復興」という論文に出会いました。この論文は、東北歴史博物館上席主任研究員の柳澤和明氏が2011年5月28日に著したもので、貞観大地震を記録した『日本三大実録』の記述内容と多賀城跡の発掘成果をコンパクトに紹介し、東日本大震災と関連づけて考察したもので、多くのみなさんにぜひ一読をお奨めしたい論文です。
ただ、「この巨大地震が発生したのは、貞観11年(869)5月26日で、現在使われている暦に直すと7月9日にあたります」としていますが、この陽暦換算日はユリウス暦であって、グレゴリオ暦では4日をたして7月13日になるはずです。
ユリウス暦は太陽暦の旧暦で、4年に1度きちんきちんと閏日をもうける暦です。でもこれでは閏日をとりすぎなのです。それで1582年の10月4日の次の日を10月15日にし、閏日とりすぎによるズレをただし、以後400年に3回、閏日を省くことにしたのです。西暦年が4で割り切れても100で割り切れる年は平年とし、100で割り切れても400で割り切れる年は閏年とすることにしました。これがグレゴリオ暦です。
日本では明治5年12月3日を明治6年1月1日とし、太陰太陽暦からグレゴリオ暦に替えました。つまり、わが国ではユリウス暦は一度も使ったことがなく、陽暦換算をするならグレゴリオ暦にすべきです。
なお、『日本暦日原典』を用いた陽暦換算は以下のようになります。
まず「貞観11年5月1日」はユリウス暦で869年6月14日です。(『日本暦日原典』p155)
したがって「貞観11年5月26日」は869年6月14日+25日=6月39日=7月9日。
700年2月29日から900年2月28日までユリウス暦とグレゴリオ暦との差は4日です。(『原典』p545)
こうして「貞観11年5月1日」は、現在の暦=グレゴリオ暦で869年7月13日となります。お問合せは(eメールアドレス:f.masuei@gmail.com)まで。.


(2)このブログについて柳澤和明氏から「1582年以前の和暦については、火山学者の早川由紀夫・小山真人氏による下記の論文があり、(火山学・地震学や歴史学では)一般には1582年以前の和暦はユリウス暦で表記されるようになってきております。小生もそれにしたがいました」とのメールを頂戴しました。(12月23日)
「1582年以前の火山噴火の日付をいかに記述するか―グレゴリオ暦かユリウス暦か?」1997『地学雑誌』106-1 掲載 http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/seminar/Julian.html


(3)どうやら私が考えていたほどことは単純ではないようです。さしあたり「現在の暦で…」としながらユリウス暦に換算することについて理解できない旨メールを差し上げましたところ、その点については理解していただいたような気がします。ただ換算にについては、ユリウス暦時代の1582年以前の和暦については「ユリウス暦に換算するのが趨勢」とのことです。
私としては、当時の太陽暦と比較する時にはユリウス暦、「現在のこよみでいつか」という問題設定のときには現在使われているグレゴリオ暦に換算するのが妥当と思うのですが…。いずれにしましても柳澤氏により今日の研究者の動向をご教示いただき感謝をしております。
なお1月22日に東北歴史博物館のオープン講座で同氏が「貞観地震と陸奥国の復興」の講演をされます。まだ余裕があるそうです。ぜひ拝聴しましょう。私も参加します。

「貞観の大地震」―――原文・読み下し文・口語訳・言語解説

東日本大震災で869年の「貞観の大震災」が注目されるようになりました。私も10年前から紹介してきましたが、今回、改めてじっくりと読んでみました。素人ながら漢和辞典と首っ引きで読み下し文、口語訳文に挑戦しました。原文も掲載しました。ぜひ読んでみてください。







































2011年9月30日金曜日

明治5年12月は2日しかなかった。その理由は…

わが国の暦はいつから太陽暦になったのだろうか?
明治六年からである。
明治政府は明治五年十一月九日、「来る十二月三日を明治六年一月一日とする」と改暦の布告を行った。
したがって、明治五年十二月は二日しかない。
では改暦まで一ヵ月を切った時点で、なぜあたふたと改暦したのか。
それは公務員の給与削減のためだった。
以前年俸制だった役人の給料は明治四年から月給制に。
気が付いてみたら明治六年は閏六月があり十三カ月の年(すなわち旧暦の閏年)。
このままでは年に十三回も給料を払わなくてはならない。
財政難だった明治政府、それは大変とあわてて太陽暦に変更した。
(第三章三節)

4日の次が15日?

実際の太陽の一年平均は三六五・二四二二日だが、ユリウス暦は四で割り切れる暦年を閏年とするので、三六五・二五日となり、実際よりわずかに大きい。
そのため、百二十八年に一日ずつずれていく。
十六世紀には春分が三月十一日にくるようになった。
放置するとキリスト教の復活祭が真夏になってしまう。
これはまずいとグレゴリオ十三世は、一五八二年十月四日の翌日を十五日とし十日間のずれを修正し、四百年に三回閏年を省くことにした。
すなわち、四百で割り切れない限り、百で割り切れる年を平年にすることにした。
これをグレゴリオ暦といい、一年平均三六五・二四二五日となり、約三千年に一日しかずれない暦となった。
(第一章二節)

ロシア革命は「十月?」それとも「十一月?」

世界史の大事件=ロシア革命は「十月革命」とも「十一月革命」とも言われる。
これってなぜ?。
実は、一九一七年当時、ロシアはまだ「ユリウス暦」を採用しており、この日は十月二十五日。
この頃はすでに日本も採用していた世界の暦=「グレゴリオ暦」では十一月七日。
それで両方の記述があるという次第。
ちなみに、グレゴリオ暦とユリウス暦の差が十三日であるのは一九〇〇年二月二十九日から二一〇〇年二月二十八日まで。
以後は十四日となる。

12月に春が来た

 「あらたまの年行きがへり春立たばまづわが屋戸にうぐひすは鳴け」。

 この歌は大伴家持が天平宝字元年十二月十八日に詠んだ歌で、「うぐいすよ、立春になったらまず私のうちに来て鳴いておくれ」という意味。

 翌十九日は立春だった。

 旧暦で十二月に立春がくることを「年内立春」という。

 旧暦の閏年(十三ヶ月の年)には必ずなり、翌年もなることがある。

 ちなみに家持がこの歌を詠った日の現在暦は七五八年二月四日。

 その家持、同月二十三日に「月数めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春たちぬとか」と詠んだ。

 「暦ではまだ冬だ。だが霞がたなびいている。春が来たのだろうか」という意味。

 いったい春なのか冬なのか。どう理解すればよいのだろうか?

 興味ある方は第六章を御覧下さい。

おかしくない?『おくのほそ道』の時刻解説

 芭蕉が多賀城を通過したのは元禄二年五月八日(陽暦一六八九年六月二十四日)。

 多くの解説書はこの日「巳ノ尅(午前十時)」に仙台国分町を出、十符菅、多賀城碑を見、「未ノ尅(午後二時)」に塩竈神社前の宿でお茶漬けをたべた、と解説している。

 この間わずかに四時間。

 はたして可能だろうか。

 芭蕉については「あんなに早く歩けるはずがない」と忍者説も出る始末。

 しかし誤りは江戸時代の時刻制度を「定時法」と理解することにある。

 当時の時刻制度は「不定時法」だった。

(第五章、第八章)